BLOG

そもそも「ヨガ」って、な~に?

そもそも、「ヨガ」とは? ストレッチや健康体操のひとつ?

今世の中にあふれているヨガのイメージはスタイリッシュなウェアに身を包み、気持ちよく汗をかきながら女性がダイエットやリフレッシュの為にする「ストレッチ体操」といったかんじでしょうか。

うーーん、「近からず、遠からず」で、「当たってもいないけど全然違ってかすってもいないってわけでもない」というかんじで、これは「ヨガ」のほんのほんの一面、一点でしかなく、「ヨガして汗かいて呼吸も深くなったし、気持ちよくて満足!」ではあまりにももったいないと思うのです。

まず、インド政府のAYUSH省のお言葉をお借りすると、

ヨガとは、「本質的に非常に繊細な感覚に基づいた”精神修行”である」とされています。

また、B.S.K.アイアンガー著「ハタヨガの真髄」では、

マハデヴ・デサイ(ガンディーのアシスタントを長年していた方)は、著書『ガンディーによるギーター』の序文で、ヨガとは「肉体と心と魂のすべての力を神に結合させることであり、また知性と精神と感情と意志の鍛錬であり、それは、人生をあらゆる角度から平等に見ることのできる魂の安定を意味する」と述べている。

ヨガは、6つの正統インド哲学のうちの一つである。・・・

と書かれています。やはり「知性と精神と感情と意志の鍛錬である」ということからも、ヨガは“精神修行”であるという意味合いが強調されていますね。

ヨガとは、「心統一することによって深い境地に入ること」

ヨガという言葉の語源は、サンスクリット語で「合わせる」「結びつける」「馬に軛(くびき)をつける」「馬と馬車をつなぐ」「適合する」などの意味を持つ動詞【ユジュ(yuj)】に由来するとされています。

馬と馬車をつなぎ、馬をコントロールしながら目的地に到着するように、周りの環境に振り回されないように、自分の心や感覚器官をコントロールして瞑想などし、心統一することにより「解脱」「三昧(サマーディといいます)」などという深い境地に入ること、それがそもそもの「ヨガ」です。

ヨガのバイブル的な経典で、『ヨが・スートラ』というものがあります。一般的にパタンジャリという人物が編纂したと言われている書物で、ヨガ学派の教典(基本となる書物)です。

このヨガ・スートラの第一章の2つ目の詩句に、

【Yogas chitta vritti nirodhah(ヨーガ チッタ ブルッティ ニローダハ)「ヨガとは、心の作用を止滅させることである」】

とあります。「心の作用を止滅させる」とは、どういうことでしょう?

無感情になれってこと?

何も考えるなということ?

そうではないですね。不安定に揺れ動く心・感情をコントロールして落ち着いて、安定させるということ、静かに澄んだ状態、穏やかな状態にとどまるということです。それが私たちの幸せにつながりますよ、とパタンジャリさんは言っています。

いつ何時、どんなときでも、常に穏やかな精神状態でいること、それがヨガの目的であるとされています。

たまにヨガして、リフレッシュして、瞑想して、その時だけ「穏やかになった」「心が静かになった」「幸福感を感じた」、でもマットを降りて日常に戻ったらいつもどうり、ではあまり意味がありませんよ、と言っています。

いつも穏やかな自分自身であるために、静かに自分を見つめ、他人や自分以外の外の世界と調和して毎日を丁寧に生きていくこと、それがヨガの生き方・目的であり、その術を学ぶことがヨガであるとされています。

古代インドでは、「瞑想」「心統一」が深い境地に入るための方法とされてきましたが、その後心統一以外で「ジニャーナ・ヨガ(智の道)」「カルマ・ヨガ(無私の行いの道)」「バクティ・ヨガ(神への親愛の道)」などによっても“深い境地”へ至ることができると説かれました。これは、「瞑想」「心統一」などの心身を整えて坐にとどまる、いわゆる出家的な修行から、日常生活のなかの行為を修行と捉える在家的なヨガが現れたことを意味します。

これはまた「ヨガの種類・流派」で詳しくお話しますね。

そして、様々な影響を受けて、次第にそれまで軽視されていた肉体を聖なるものとして重視した「ハタ・ヨガ」が現れます。精神を整える前に肉体を健康に整えようという流れですね。これが私たちがよく知る「ヨガ」です。ポーズをとったりする「あのヨガ」は、ヨガの中の「ハタ・ヨガ」という種類の「アーサナ」という修練のひとつ、ということなのです。

さらに「アーサナ」とは、もともとは「坐法」「坐ること」の意味で、瞑想を行うときの姿勢を示す言葉でした。それが、「ハタ・ヨガ」では、坐法だけではなく、立位や仰臥位など様々な“姿勢(いわゆるポーズ)”のことも指すようになったということです。

アーサナは「安定していて」「快適であること」が大前提

この“心統一”のための坐法である「アーサナ」は、2つの条件があります。

それは、「しっかりと安定していること」と「快適であること」。これがクリアされていればどのような坐り方であれ「坐」とされたそうです。

これはヨガの坐法が苦行になってはいけないという意味があるそうです。

このことは、「坐法」という意味だけでなく、立位や仰臥位などの私たちがヨガと認識しやすい「ポーズ」にももちろん当てはまります。

もともとは、安定して快適に坐り心を落ち着けて瞑想に入るために、身体を伸ばしたり、ほぐしたり、時には鍛えたりして身体を整えたのが「ハタ・ヨガ」のアーサナです。精神を落ち着けるための準備なんですね。

なので、身体への作用を目的にして、付属的に「気持ちいい」「すっきりする」だけで終わってしまうのは、ヨガと謳うにはあまりにもったいないということです。

そして、美しいボディラインのためにキツイ思いをして行う筋トレや、運動をするために通うジムともヨガは同じものではない、ということですね。

もちろん、アーサナだけでも、例えば今まで運動不足であったり、気持ちが落ち込んでしまっていたりという方が体験するとそれだけでも劇的に気分がよくなったり、身体が軽く感じたりというのはあると思います。

かく言う私も、近くのホットヨガスタジオで「アーサナ」を体験して、あまりの身体の気持ちよさ、それに伴う心の爽快さに感激してヨガの虜になったのが始まりです。しかし、ヨガを学べば学ぶほど“内側(精神)へのアプローチ”こそがヨガなんだなと思っています。

きっかけは何でもいいし、極論「アーサナ」だけでも素晴らしい影響を与えてくれる「ヨガ」。

でも、同じ「アーサナ」を練習するときに、意識を肉体でとどめるのか、自分の内側へ運んでいくのかによってゴールは違ってくるでしょう。

これが「ヨガ」と「ストレッチ体操」の差でもあると思います。

以上、「ヨガとはそもそもなあに?」をまとめてみました。

お読みいただきありがとうございます。

関連記事

PAGE TOP